壊れた人形
アタシの心はいつまでも、赤黒い血を流し続けて、止まることなく脈打ち続けて居りました。
崩れた端から流れ出して行く心の中身は忌みじくも尽きることはなく、只々空っぽに成って行く痛みがアタシを苦しめ続けました。
他に好いた女が居るワケでもなく、只身勝手にアタシを捨てた貴方。貴方が居ればそれだけでアタシは満たされますのに。
貴方はもう逢わないと云いましたね。
でも貴方が居ないと、アタシはどうやって生きて行けば良いのか解らないくらいに、貴方はアタシの心を埋めて居りました。
貴方は二度とアタシの元には戻らない。それならいっそ、と想うて仕舞ったのです。もう、耐えられなく成って仕舞ったのです。
家の場所は知って居りましたから、あの夜アタシは出刃包丁を握りしめ、貴方の家の生け垣に隠れて待ち伏せました。
貴方の姿が見えた時、もう何日も貴方の声を聴いていない寂しさが心の傷を更に深く抉り、捨てられた哀しさではち切れそうになった侭、途方もない愛しさがアタシを走らせました。
それから今まで何日間も、途切れ途切れの記憶しか有りません。
次に気が付いた所は自分の家の台所でした。
貴方が憎たらしいからこんなことしてる訳じゃ無いのよ。貴方のことを嫌いだと想ったことなんて一度も無いわ、ホントよ。許してね。
アタシはまず脚の付け根に刃を振り下ろしました。
でも非力なアタシの力では思いの他刃はくい込まず、諦めて太腿の真ん中の当たりの、なるたけ骨の細い部分を狙って何度も何度も刃を叩き付けました。
ここが弱いって教えて呉れたのは貴方だったわね。貴方は沢山の魅力的なことを教えて呉れた。
アタシは不器用だしちゃんとした道具も無いからこんな可愛く無いやり方に成って仕舞ってごめんね。
もう貴方から何かを教わることは無いのだけれど、これからは二人で一緒に色んなことを知って生きましょう。
ドコへ行くにもズット一緒よ。嬉しくて仕方無いの。ホラ、いつもみたいに無邪気に笑ってよ。ごめんなさい、そんな気分じゃ無いかしら。あ、今少し笑ったでしょう。
貴方の脚、瑞々しくて美味しいわ。噛んでジュワリと染み出す血潮が喉を伝って流れるその感覚すら愛おしい。
不味いワケ無いわよね、大好きな貴方だもの。包丁の刃はボロボロに成って仕舞ったから、犬喰いしか出来無いのが恥ずかしい。
こんなみっともない姿、貴方には見せたく無かったのに。
そうだ、いつも二人で寛いだ居間に行こうかしら。その方が落ち着くでしょう。引き摺って行くけど許してね。
でも貴方って、こんなに軽かったのね。貴方のことをまた一つ知れて嬉しいわ。
いつも二人で笑い合った椅子に座らせてあげるわね。貴方がアタシの料理をいつも不味そうだと言って居たのが心配だけれど、これからは毎日一緒にご飯を食べましょう。
貴方が骨だけに成ってもズット愛し続けるわ。毎日眺めて居られるなんてホントに幸せよ。
貴方のお顔を崩して仕舞うのは申し訳無かったけど、目を瞑って、ヒト想いに。
アタシの不器用な深爪の指じゃ上手くしてあげられないのを申し訳なく想うわ。
指先の感覚だけで口元へ運んで、優しく口付けをして、吸い付くの。
ソシテゆっくり唇を割り開いて、ヌルリとした硬い弾力を確かめる様に口に含んで、舌でツルツル舐め転がして……
これで、貴方の目は今ホントのホントにアタシしか視て居ないんだわ。と云っても口の中だけなのだけれど。ウフフ。
こんなに幸せなのに何故だかアタシの心は満たされないの。何故かしら。何故?ナンデ満たされないのよ。
アタシは泣きながら肉を貪りました。それからはほとんど覚えて居りません。
一心不乱に引き千切っては口に運び、噛み千切っては飲み干して居た様に想います。
獣の様に吼えながら血肉を喰らうアタシの姿は、きっと浅ましい餓鬼と大差無かったでしょう。
どれだけの時、呆けて居たのか分かりません。立ち上がろうとすると、ナンダカ上手く行きません。
視界もドコかオカシイのです。均衡を崩して床へ叩きつけられてヤット気付きました。片脚が無いのです。
先の砕けた骨が剥き出しで滑稽に突き出ているだけです。ズット泣き喚いて居たせいで悲鳴は音に成りませんでした。
どうやら心臓はズット早鐘を打ち続けて居た様で、ズット冷や汗に塗れて居た様で、身体はそれ以上焦りませんでした。
幼子の様に掴まり立ちをして、フラフラと洗面台へ向かいました。鏡に写ったアタシの顔は、生ける屍その物でした。
髪はフケ塗れでバサバサに成っていて、皮膚は全体に黒く成った垢ダラケ、片眼が有った所には深く窪んだ穴が有り、周りは蛆が巣食って居ます。
思わず穴に手を伸ばした時に、指もほとんど無いことに気付きました。極め付けは赤黒い血と黄ばんだ脂がこびり付いた口。そのキタナラシサ……
アタシが一生懸命に喰らって居たのは、アタシの脚でした。アタシだけを視ていたのは、アタシの目玉でした。
アタシはあの夜、貴方を目にした時湧き上がった綯い交ぜの感情で、オカシク成って仕舞ったのでした。
ほんの少しハッキリした頭で改めて鏡を眺めると、その様相は最早只の屍とすら呼べない様な代物でした。
目玉の腐れ落ちた生気の無い顔は、趣味の悪い人形の様に見えました。貴方に愛でられ、ズット大切にすると云われ、それなのに呆気無く悪戯に打ち捨てられて、無惨に壊れて仕舞った人形です。自力でドコへも行こうとしない、貴方が捨てさえしなければ、ズット手元に有っただろう人形です。
貴方を喰らうことの出来なかったアタシは、満たされないまま苦しみ続ける他有りません。到底生きて行くことなど出来やしません。嗚呼、この侭、孤独を、この身を喰い潰して逝くのでしょう。それでもアタシは貴方を嫌うことも憎むことも出来無いのです。貴方を傷付けたら、自らも同じくらいに傷付くのだと思い出して仕舞ったのです。それほどにアタシは貴方のことを愛して居るのです。只々悲しくなる程純粋に、貴方を愛しいと想うて仕舞うのです。
どうか貴方が幸せで居りますようにと、アタシは変わらず願って居りますから……
心身共に腐って黒ずんだアタシは今も、臭い膿の混じった鮮血を流し続けて居ります。このまま溶けて跡形も無くなるまで、止まることは無いのでしょう。
了